投稿名を「マーちゃん」にしてる事紛らわしいのを先ず先にお詫び申し上げます。私は実質昭和30年から35年迄マーチャンのプロモートとマネジメントをしていました。勿論専属マネージやーはいましたが、あの時代の事故、地方で興行を打つ場合、今では在り得ない形で、行われていたので、私が間に入ってお互いが特をすると言う形で治めていました。私が初めてマーチャンを見たのは銀座テネシーでした。ママは林千冊子さんでした。優しいジャズバラードを唄っていました。聞くや「是だ!」と直感し直ぐに名刺を渡しました。同時にマーちゃんは銀座ACBの専属に為りました。社長が谷富次郎さんでママが谷和子さんでした。ママのマーちゃんへの思い入れは半端無く、直に間を於かず、社長の谷富次郎さんが素人なのに東洋企画と言う素人プロダクションを立ち上げましたが、所詮は素人、簡単言うと専属歌手はACBでしか歌わせ無いと言う歌手側からすれば無茶苦茶な話です。当然マーちゃんは退所しキングレコードに移籍させました。後のロカビリ―時代は伊東ゆかりさんも御存じの通りです。マーちゃんがスパーク3人娘の園まりさんにぞっこんだったのは伊東ゆかりさんは、ご承知だったでしょうし、伊東ゆかりさん本人も讀賣巨人軍の柴田勲選手とのロマンスで有名でした。中尾ミエさんの長年のパートナーは一般人の為伏せて置きます。前置きが長過ぎましたが、私は熱烈な伊東ゆかりさんの大フャンです。1958年「クワイ河マーチ」でイカレてしまいました。歌手が未だ少女だったにも関わらずです。その後数年経って洋楽を日本語で歌う、今で言うカバ―ポップスの全盛期を迎えた折、伊東ゆかりさんが御多分に漏れず大ヒット曲の「バーケーション」を吹き込まれました。是を聞いて完全にノックアウトされました。男女問わず多くの歌手が歌いましたが、チャコちゃんやミコも歌ってましたが、ずば抜けて上手かったのは申す迄も無く伊東ゆかりさんでした。その後15回(1965年)サンレモ音楽祭入賞曲「恋する瞳」で私の歌手を見る目は節穴では無かったと確信しました。数年時は流れ、1967年には「小指の想い出」で「第9回日本レコード大賞」歌唱賞を受賞し名実共に伊東ゆかりの名を確固足る物にしました。然し残念乍ら、園まりさんが逝去されスパーク3人娘見る事はもう叶わぬ事と為りましたが、是非中尾ミエさんとお二人で全税期の洋楽ポップスの持つ楽しいティーンエージャーの頃の気持ちに戻れる様に観客を暫くその時間を与えて下されば幸いです。長々と失礼いたしました。